またまた久しぶりの投稿ですが。
哲学者の東 浩紀さんが、さる対談動画の中で、「私たちはコンテンツというものの定義を間違えたのではないか」という旨のことをおっしゃっていて、とてもとても興味深く拝聴しました。
例えば、「紙の本」に対して「電子書籍」があって、我々は「紙の本」から中身の活字情報の部分をコンテンツとして抜き取って「電子書籍」化しているけれども、本来抜き出した情報の部分といのは本を読むという体験の一部でしかなくて、表紙の装丁、本の手触り、質感、厚み…などなどといったものすべてを含めて「コンテンツ」と定義すべきではなかったか、というのです。
つまり、本来の「コンテンツ」から一部だけを切り出して、コンテンツとしてはいなかったか、ということかと思います。
この手の議論は、過去にも何度か耳にしたことはありましたが、今回改めて考えてみますと、音楽も、データとしての音楽、CDや、その前のレコード、カセットテープを通して聴いた音楽、テレビやラジオを通じての音楽、と様々なメディアを通して長いこと人類は音楽を楽しんできたわけですが、さらにそのもっと前段階、「演奏して楽しむ音楽」を味わい楽しむことが、どんどんと貴重で贅沢なものになってしまっている感があります。
楽器を演奏して、楽器が振動する。それが全身に伝わる。空気が振動する。同じ空間にいる人々に伝わる。共体験する。
どんなに演奏が拙くとも、その真剣さや、ドキドキや、心のあり様まで伝わったりする。聴衆の反応で、演奏も変わったりする。
こうしたことすべてを、音楽の「コンテンツ」と定義したとしたら、今日常に我々が享受しているものは何なのか?
以前、クラシック音楽好きの人は、ロックやパンクなどの楽曲部分だけを切り取って考えて、ジャンルとしての優劣を考えているのではないか、と指摘されたことがあります。
ファッション、歌詞、パフォーマンス、オーディエンスとの空間、一体感、その他諸々をすべて統合してロックなのだから、そもそも鑑賞の仕方を間違っていると。東さんのご指摘に当てはめて考えれば、コンテンツとしての捉え方を間違っていた、ということですね。
色々、見方や切り取り方によって世界の見え方も変わるのですね。
様々な形態や媒体で、使い方や楽しみ方も棲み分けをして、上手く日常に活かすことを模索したいな、と思いました。
飯塚
ラベル:音楽
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