2023年01月24日

コンテンツその2

昨日の続きとなりますが。

コンテンツというものの概念を、もう一度捉えなおしていこうというお話しを改めて考えてみます。

我々が関わっている音楽教室や楽器を学ぶということが、その一端を担っているということについて。


テクノロジーの進歩で、コスパやタイパの観念から、いかに効率的に短い時間で目的を達成できるかということが一つの指針として推し進められている現代に、これとは一見逆行した、

  • コツコツと時間を掛ける、しかも年単位で
  • 結果は誰でも同じではない

などなど、コスパもタイパも完全無視状態の作業を日々積み重ねること、これは本当に価値あることだな、と感じます。


昨日言及した動画の中で、東さんは、「子どもが絵を描きたいと思って絵を描くことを楽しんでいる、それを結果だけ与えれば満足できるだろうといって完成された無料イラストを与えたとしても、子どもは満足できないはず」という趣旨のことをおっしゃっていました。

小さな子がピアノの鍵盤を無造作に叩いたり、ヴァイオリンを弾く真似をしたり、その根本的欲求は、実際に弾かない限り満たせないですものね。


そんな心の欲求への道案内が出来ること祈り、喜び、楽しんで、日々レッスンしたいなと、改めて思いました。

飯塚

posted by suzukimethod at 14:13| 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月23日

コンテンツとは。

またまた久しぶりの投稿ですが。

哲学者の東 浩紀さんが、さる対談動画の中で、「私たちはコンテンツというものの定義を間違えたのではないか」という旨のことをおっしゃっていて、とてもとても興味深く拝聴しました。

例えば、「紙の本」に対して「電子書籍」があって、我々は「紙の本」から中身の活字情報の部分をコンテンツとして抜き取って「電子書籍」化しているけれども、本来抜き出した情報の部分といのは本を読むという体験の一部でしかなくて、表紙の装丁、本の手触り、質感、厚み…などなどといったものすべてを含めて「コンテンツ」と定義すべきではなかったか、というのです。

つまり、本来の「コンテンツ」から一部だけを切り出して、コンテンツとしてはいなかったか、ということかと思います。


この手の議論は、過去にも何度か耳にしたことはありましたが、今回改めて考えてみますと、音楽も、データとしての音楽、CDや、その前のレコード、カセットテープを通して聴いた音楽、テレビやラジオを通じての音楽、と様々なメディアを通して長いこと人類は音楽を楽しんできたわけですが、さらにそのもっと前段階、「演奏して楽しむ音楽」を味わい楽しむことが、どんどんと貴重で贅沢なものになってしまっている感があります。

楽器を演奏して、楽器が振動する。それが全身に伝わる。空気が振動する。同じ空間にいる人々に伝わる。共体験する。

どんなに演奏が拙くとも、その真剣さや、ドキドキや、心のあり様まで伝わったりする。聴衆の反応で、演奏も変わったりする。

こうしたことすべてを、音楽の「コンテンツ」と定義したとしたら、今日常に我々が享受しているものは何なのか?


以前、クラシック音楽好きの人は、ロックやパンクなどの楽曲部分だけを切り取って考えて、ジャンルとしての優劣を考えているのではないか、と指摘されたことがあります。

ファッション、歌詞、パフォーマンス、オーディエンスとの空間、一体感、その他諸々をすべて統合してロックなのだから、そもそも鑑賞の仕方を間違っていると。東さんのご指摘に当てはめて考えれば、コンテンツとしての捉え方を間違っていた、ということですね。


色々、見方や切り取り方によって世界の見え方も変わるのですね。

様々な形態や媒体で、使い方や楽しみ方も棲み分けをして、上手く日常に活かすことを模索したいな、と思いました。

飯塚
ラベル:音楽
posted by suzukimethod at 15:25| 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月31日

ドリル

さて、また珍しく短い間に投稿を!



『漢字ドリル』って、皆さんされたことはおありでしょうか?



むしろ経験の無い人を探す方が難しいかもしれません!



今回お話ししたいのは、


『果たして漢字ドリルで字は上手になるのか?!』


ということです。



さて、そもそも『漢字ドリル』って、字を上手に書けるようにするためのものでしょうか?


もともと誕生した時の本来の目的は不明ですが、少なくとも多くの子供たちや、元・子供たちが使っていた際の目当ては、「漢字の書き方を覚える」ではないかと思います。



お手本の字をなぞって、その下に自分で真似をして書いて、あとはマスの数だけドンドンと同じ字を書いていくのですが、特に男の子なんかですと(偏見!自分のことです!)、書けば書くほど字が雑になり、殴り書きのようになって行く…。



字の書き方は覚えられたとしても、これでは上手になることはなさそうです…。



スズキ・メソードにおいても、『繰り返し学習』が非常に大きなウェイトを占めています。


繰り返すことで、これまでいっぱいいっぱいだったものが少しずつ簡単になり、更に音楽に彩りを添える余裕まで生まれてくる…。


…はずなのですが、もしも練習の段階で、上記の間違った『ドリル』式の練習が行われてしまったとしたら、上手になるどころか、どんどんと質が下がってしまいます!



そのために常に気を付けなければならないのが、『より良き一回』という取り組みです。


前回よりも、少しでも良い音で、少しでも正確に、少しでもスムースに、少しでも表現豊かに…と心掛けて練習を積み重ねていけば、結果が違ってくることは言うまでもありません。



しかしこれが中々難しい!



せっかくのドリルで、間違って変な穴を開けないようにしなければなりません。



自戒を込めて!


飯塚


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2019年05月28日

楽しく弾くとは

久しぶりに、お知らせ以外の投稿を!


これから楽器をお子様に習わせてみたい、あるいはご自身で習ってみたいとご検討中の皆様から頂くお問い合わせの中で時々耳に致しますものに、

『プロになるわけではないので、楽しく出来れば良い』

という趣旨のことがございます。


もちろん、私どもスズキ・メソードは楽器のプロを目指す専門家の養成を主眼としておりませんので、その『プロになるわけではない』という目的には合致するのですが、しかしながら『楽しく出来れば良い』の部分は非常に難しいな、といつも感じます。


と申しますのも、それがもし、

『楽曲を弾けるようになるために必要不可欠な練習や、それに伴う(主に精神的な)葛藤や苦痛抜きで!』

ということとなりますと、これは問題です!


もちろん、特に大人の方ともなれば、初歩の楽曲のうちはさほどの練習量がなくとも実際クリアできるかと思います。

もしもその「クリア」のハードルが「ノーミスで弾く」程度のところに設定されていれば、尚のこと、何回かに一回は必ず「成功=クリア」出来るでしょう。


ですが、徐々に曲が難しくなりますと、間に合わせの技術力ではツケが回ってきます。


必要な積み重ねが少なければ、より難易度の高い楽曲が全く思うように弾けず、トライしていても自己嫌悪のような気持ちにすらなり、ちっとも『楽しくない』のです!


本当の楽しさや喜びは、目の前の目標に向かってチャレンジして、失敗を重ねながら、徐々に出来るようになり、最後には何度弾いても間違わなくなり、人によってその仕上がりに程度の差こそあれ、さらに一歩進んで音楽的な表現まで出来るようになる!時に訪れます。これは楽器に限らず、誰しもが似たようなことを様々な形で経験していることです。


しかも本当に大切なのは、ある曲が弾けるようになったかどうかではなく、その過程で手にする、

「辛抱強さ」
「努力する心」
「自分を高めようとする心」
「あきらめない心」
「学ぶことへの喜び」
「達成感」

などなどですよね。


それが身につくのであれば、楽器以外のことでも人生を生きる助けとなります。

そしてそれこそが、スズキ・メソードの目的でもあります。


『楽しく出来れば良い』の言葉の奥に、いつも難しいものを感じる所以です。


飯塚
posted by suzukimethod at 17:59| 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月06日

チャレンジャーズ・ライブ

本日6月6日、せんだいメディアテークにて行われた、

仙台国際コンクールの関連イベント、『チャレンジャーズ・ライブ』

を聴きに行って参りました!




6名の方が演奏されたのですが、皆さんそれぞれに個性があって、

とても楽しく、素敵な演奏会でした!

 


こうして世界各国からの出演者の皆さんの演奏を聴かせて頂くと、

その音楽の背後に、文化や環境など様々なバック・グラウンドを感じ取ることが出来、

普段よく聴く同じ曲でもまた違った、新しい発見が沢山ありました!




毎日生活している街に居ながらにして、世界の文化を感じ取ることが出来るなんて、

なんと有難く、素晴らしいことでしょう!




出演された皆さんにとっても、仙台で過ごした時間がプラスになっていることを

願っています!



飯塚
ラベル:コンサート
posted by suzukimethod at 00:22| 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月05日

「謝」

スズキ・メソード仙台支部のブログをご覧の皆さま


随分とご無沙汰を致しております…

長期間更新がなされず申し訳ありませんでした!



この○ヵ月間、仙台、東北には本当に色々なことがございました。



被災地である東北の我々に世界中から多大なるサポートを頂戴も致しました。



こうしてまたブログを再開し、情報を発信していくことで、

私たちの復興を少しでもお伝えできればと願っております!



こうして皆様への「お詫び」と、「お礼」の気持ちを書き表そうと思いましたところ、

どちらも「謝」の字を使うことに気が付きました。



「謝辞」と「感謝」


どうして同じ字を用いるのか調べましたところ…



「謝」は、「言」ベンに「射」と書きます。


「射」はもちろん矢を射ることで、ピンと張りつめた弦を

矢を放つことで緩めることを表すそうです。


つまり、『「言」葉の矢を「射」ることで、張りつめていた心の緊張をほぐす』

のが「謝」の核となる意味なのだそうです。



ですから、「謝やまる」のも「感謝する」のも

『「申し訳ない」と思う気持ちを言葉にして、心の負担を軽くする』


ということになるのですね。



この文章を書いたくらいでは、僕の肩の荷はまだちっとも軽くなってはいませんが…。



飯塚


posted by suzukimethod at 21:18| 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月02日

こちらも乙なんです。

この間の書き込みからずっとシューマンにハマっておりまして、色々と聴き直している次第です。


で、今日はチェロについて書いてみます。


シューマンはチェロのために、ソナタこそ書かなかったものの、小品を結構残してくれています。

それらは極めて個性的な曲が多く、シューマンらしさに満ち満ちています。


シューマンの、ピアノ以外の楽器のために書かれた器楽曲は、楽器指定が複数あることが多いんです。

例えば、ヴィオラのために書かれたけれど、チェロやヴァイオリンでも弾いてよい、というような感じです。


ホルンとピアノのためのアダージョとアレグロという曲があるのですが、この曲もやはりチェロでもヴァイオリンでも演奏可能です。

というより、むしろチェロで弾かれることの方がむしろ多いのでは?と思える程です。

で、この曲が、また個人的に大好きなんです。

シューマン特有の、陰りを含んだロマンティシズムがとてもたまらないんです。


まだお聞きになったことの無い方は、この機会に是非!

飯塚


posted by suzukimethod at 00:28| 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月30日

乙なんです。

皆さまご承知の通り、今年、2010年はショパンとシューマンの生誕200年記念の年です。

本日はシューマンについて書いてみます。


ショパンはもちろん、シューマンもピアノ曲を数多く作りました。

本人自身もピアニストを目指していましたが、手の故障により断念、その後は妻でもあり、当時最高のピアニストの一人でもあったクララ・シューマンのために、数々の名曲を残しました。

とはいえ、シューマンの曲はちょっと地味めといいますか、哀愁を帯びているといいますか、認知度もそれほど高くはないように思われます。

たとえば誰でも聴いたことがあるほどの有名なものが、『トロイメライ』か、頑張って『楽しき農夫』といったところですよね。


そもそも、シューマンや、一つ年上のメンデルスゾーンといった作曲家たちは、一方で超絶技巧を駆使した作品や演奏家たちを称賛しつつ、他方において、自分たちは「技巧のための技巧」に終わるような曲は書かないというモットーがあったようです。

その信念が、シューマンの曲の中には貫かれていると感じます。


技術的にはかなり高度なものが要求されていながらも、聴衆はその技術の高さに対してではなく、音楽そのものに称賛を贈ることになる。


そうした曲作りへの姿勢が、シューマンの音楽をシューマンの音楽たらしめているように思われてなりません。


そして、そこがまたたまらなく良いんです!


ちなみに個人的に非常に好きなのは、『ウィーンの謝肉祭の道化』という曲です。あまり演奏頻度が高くないように思われるのですが、気のせいでしょうか?


もしそうなら、ピアニストの皆さま、このシューマン・イヤーには是非、お聞かせ下さい!

飯塚

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2010年05月23日

一里塚

いやいや、すっかりとご無沙汰してしまいました!

今日を機会にまた更新をして参りたいと思います!


思いっきり秋眠、冬眠、春眠している間に季節はもう梅雨になってしまいました。

春の天気が今年は異常で雨続きだったのに、気がつけばもう梅雨です。雨の連続攻撃です。


天気が悪くてアウトドアが楽しめない時には、音楽とともに1日を過ごすのも乙なモノですね。


仙台では昨日、5月22日(土)から、仙台国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門が始まりました。続いて行われるピアノ部門と合わせると、約1ヶ月に及ぶ長丁場です。

このコンクールは、予選の段階から全ての出演者の演奏がストリーミング映像で鑑賞出来るのです。ありがたいことですね!

ヴァイオリン部門の予選は、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲 第3・4・5番からいずれかを選択する様です。

第4・5番はスズキの教本の第9・10巻に収められている、学習者に取っては一つのマイルストーンとも言える曲ですよね。開場に足を運べば、その生演奏が1日に何度も、もし開場まで行けなくともインターネットを通じて好きな時に楽しめるのは、本当に嬉しい限りです!

CD等から耳だけで鑑賞するのはもちろんのこと、こうして実際に演奏する姿が見られるというのは、学習者にとっても、指導者にとっても、大変参考になります。

是非この機会を利用したいものです!!

第4回仙台国際音楽コンクール
http://www.simc.jp/index_j.html

ストリーミング映像はこちら
http://www.simc.jp/streaming4th/index.html

飯塚
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2009年09月16日

漕げ漕げお舟

飯塚教室演奏会は10月17日(土)です!


音楽は言葉を越えた文化の代表でありながら、音楽そのものは、言葉の影響を少なからず受けて成り立っています。


例えば、我々日本人が作る音楽は日本語のリズムや抑揚をいつの間にか反映したものになっている、というわけです。


もちろん、特に現代のように世界同時進行的な世の中では絶対ではありませんが、時代を遡るほど、歌詞の有無に拘わらず、そうした影響がその音楽の「アイデンティティ」を作る一つの要素になっているということは、間違いなく言えると思います。


ですから、たとえ何となくでも、色々な外国語の発音やイントネーションのイメージを頭の隅に置いておくことは、外国の音楽を解釈、理解したり演奏、表現したりする際に、非常に役に立ちます。


他にも、いわゆる「国民性」やその国の文化なども、当然ながら影響していますが、やはり言葉によるそれはとてもストレートに現れます。


イタリア語の母音の豊かさが、あのカンタービレを作り出すのでしょうし、

ドイツ音楽のキッチリとした進行はドイツ語の響きに似ていますし、

フランス音楽の持つ独特のアンニュイさは、フランス語の雰囲気そのものですし、

英語のポップスに良くある速いスキップのようなリズムは、英語の抑揚そのまんまです。


以前、「マザーグース」の詩を吹き込んだCDを聴いたところ、それがなんとイギリス起源のダンス、「ジーグ」のリズムと全く同じでした!


音楽は文化交流の入り口となり、言葉がその次のステップとなるのですね。

飯塚
ラベル:言葉
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2009年09月14日

61の制約

ピアノという楽器は18世紀の初めに誕生しました。

クリストフォリという製作家が「発明」したのですが、それ以前に活躍したチェンバロに比べて鍵盤のタッチが重く、バッハなどはお気に召さなかったようです。


発明当時のピアノを、現代のピアノと区別するために便宜上“フォルテピアノ”と呼んだりします。

なぜ区別する必要があるかというと、様々な点が異なっているからです。


まず鍵盤の数ですが、現代のピアノが88鍵あるのに対し、当時は61鍵が普通でした。チェンバロなどもその数が通常です。今のものと比べて高音域と低音域が少ないのですね。

ですから、バッハやヘンデル、ハイドンやモーツァルトの楽曲などは、この鍵盤の範囲よりも高い音、低い音が出てこないというわけです。


そして、弦を張る力も違います。現代のピアノは中を覗くと大きな「鉄板」の様なものが入っていて、それに弦をかなり強く張ってあります。何トンという力だそうです!これによってとても大きくて力強い音が出せるわけです。

ところがフォルテピアノは外見も中身もボディはすべて木製です。ですからあまり強く弦を張ると木の板が歪んでしまいます。それに伴い、音の大きさもそれなりでした。


そうすると当然見た目も違います。細身で、華奢で、木材の質感の分かる外見をもつフォルテピアノに対し、真っ黒で、いかにも重たそうな現代のピアノは、まさに「楽器の王様」といった風貌です。


フォルテピアノは、ベートーヴェンの時代、というよりもベートーヴェンの音楽的要求に合わせて?、急速に進化をしていきました。

鍵盤数もその時代に88鍵まで増えましたし、大型化に伴い音量も増しました。ピアノはその内部で弦をたたいて鳴らす構造ですが、そのシステム自体も変化していきました。


現代の様な形に落ち着いたのは大体20世紀に変わる頃です。スタインウェイによって現代の形にまで変化を遂げました。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、このピアノの進化と共にあります。

第1番、第2番はモーツァルト時代と同じ小さなフォルテピアノで弾かれましたが、第3番、第4番、そして偉大な第5番という風に、徐々に音楽の規模も、必要な鍵盤数も、大オーケストラに対抗するだけの音量も増していきました。

ベートーヴェンの音楽的要求がピアノを発展させたのか、もしくはピアノの発展がベートーヴェンをインスパイアしたのか。


そのような観点から各協奏曲を聞き比べてみるのも、面白いですね!

飯塚
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2009年09月09日

友、遠方より来たる

今日は、昨日のスズキ教育法研究会に出席するため、わざわざ札幌から仙台まで来て下さった山同直樹先生と、昼食・お茶かたがた、沢山お話しをさせて頂きました。

山同先生と私は同い年ということ、そしてスズキ・メソードの地区区分では「北海道・東北地区」という同地区所属であるということなどの理由もあり、親しくさせて頂いております。


同地区とは言え、札幌と仙台は海を越えなければなりませんし、年数会の全国イベントを除けば、普段はなかなかゆっくりとお話しさせて頂く機会もないので、ここぞとばかりにお互いの近況や普段のレッスンでのことなど、様々に情報交換し合いました。


このように全国各地に同じ志の下、同じ様な喜びや悩みを持って日々活動している方達がいらっしゃるというのも、なんとも心強いものです。

ちなみに、札幌支部山同クラスのホームページはこちらです。

飯塚
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2009年09月07日

クロスオーヴァー

仙台では今週末、毎年恒例の“定禅寺ストリートジャズ・フェスティバルが開催されます。

けやき並木に覆われた定禅寺(じょうぜんじ)通りとその周辺が、沢山のバンドやお客さんで埋まります。


ジャズ・ヴァイオリンといえばステファン・グラッペリと、何と言ってもスタッフ・スミスが有名です。


スタッフ・スミスのあの独特の、しゃべるような歌うような、自由自在の演奏、グルーヴ感は、とてもマネの出来るものではありません!ホントに魅力的です。


また、もともとはジャズ畑のジョージ・ガーシュインの曲も、クラシックの演奏会では良く演奏されます。


ラヴェルのヴァイオリン・ソナタの第2楽章“ブルース”も、クラシックとジャズのクロスオーヴァーとして有名です。


普段クラシックの方を沢山聴かれる方も、普段は敬遠しがちな方も、どちらの視点からも楽しめる音楽です。


というより、あまりジャンルにこだわっていても、仕方ありません。音楽は音楽なんです。


飯塚

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2009年09月06日

こぼれ落ちた。

せっかく頑張って掴みかけたものが、その直前に手からこぼれおちる…そんなことって、ありますよね。

私は頻繁に経験していますが、たった今も、また経験しました。


数十分かけて書いたブログが、なぜか保存されなかった…。

何かの操作ミスに違いありません。


そんな時は、むなしさで一杯になりながら、それをネタにまたブログを書く。


一度きりしか使えない手ですが!


今日書いて儚く消えたあのネタに合掌しつつ、いつかまたここに復活させることを心に誓いつつ。


明日また頑張ります…。


ともあれ、何か一つくらい。



最近、またバッハの無伴奏ソナタとパルティータを聴く機会が増えました。


しかし、これは本当にとてつもない曲です。


1720年に書かれてから、約290年くらい経っても、その輝きはまるで失われることがない。


とても難しく、容易には扱えないし、もし万が一、仮に技術的に演奏が可能になったとしても、その演奏解釈がまた非常に難しい。


どの方角から登っても、簡単なコースが無い、険しい山のように聳え立っています。


それでいて、その姿は厳格にして美しいだなんて。



おそらく今後500年経っても、ずっと金字塔のままなのでしょう。


ちなみに私はまだ、その山に近づく道に迷い続けています。


消えた文書と全然違うものを書いてしまった。

飯塚

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2009年09月05日

魔法の笛

世の中にオペラ数あれど、モーツァルトの「魔笛」ほど親しみやすいものはそう無いでしょう。

親子で楽しめる、入門オペラの決定版です。


お話の内容も非常に分かりやすく、音楽も楽しさ満載です。

コミカルなキャラ、「パパゲーノ」が常に表情をにこやかにしてくれます。


この魔笛は、作曲当時からとても人気が高く、大当たりでした!


しかし残念ながら、モーツァルトは「魔笛」の人気のさなかに亡くなってしまいます。


モーツァルトは子供時代、父親に連れられてヨーロッパ各地を旅行し、行く先々で「神童」としてもてはやされ、沢山の曲を残しました。


ところが段々と青年期から成人してゆくにつれ、その人気に陰りが見え始めます。


周囲の反対を押し切ってウィーンに出て、そこで当時はまだ珍しかった、フリーの音楽家として活動を始めます。


初めこそ大人気でしたが、そこでもどんどんと人気が落ちて行きました。


借金を重ね、病気にもなり…苦悩を重ねているそんな中、久々に大ヒットとなったのが「魔笛」だったのです。


もしかしてもっと長生きしていたら、このヒットがきっかけでまた人気が復活したかも知れません。



ちょっと話が暗くなりましたが…反対に、そんなときに書かれたこの「魔笛」に満ち溢れた明るさ!


どんな状態でも、音楽に徹する職人としてのモーツァルトのすごさです。


飯塚

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2009年09月04日

より良き1回

スズキ・メソードでは、「練習は食事と同じ」扱いです!

つまり、「ご飯を食べる日は練習をしましょう!」「練習をしなくて良い日があるとすれば、食事をしない日です!」ということなのです!


毎日欠かさず練習!を目標に、生徒の皆さんは自宅での学習に取り組んでくれています。

本当に毎日…家族旅行などにも旅先に楽器をもって行く、あるいはピアノの場合には現地で楽器を手配などして、病気やけがなどをしないように自己管理にも十分気を配り…欠かさず練習するにはどれほどの努力が必要か!練習そのものに励む生徒さんもさることながら、それを支えるご家族の皆さんにも、本当に頭の下がる思いです。


しかし反面、毎日同じように練習を繰り返していると新鮮味が無くなり、集中を欠いた「作業」になりがちです…。

練習量がより多ければ、それだけ能力が育つのが人間のシステムですから、もしも内容に乏しい練習を繰り返せば、それだけ内容の乏しい能力が出来あがってしまうことになるのです。


ですから、昨日よりも今日、今日よりも明日、今の1回よりも次の1回をより良きものにしていくことが要になってきます。


しかしながら、この「より良き1回」が本当に難しい。

この実現のために、どういったヒントがあるのか?

スズキ・メソードの本質に拘わる部分です。


この続きはまた!

飯塚
posted by suzukimethod at 16:31| 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月02日

ここにもあそこにも

普段の生活の中で、結構クラシック音楽に触れる機会はあるものです。

1番はTV、中でもCMは印象に残るものが多いですよね。

気になる曲があったら、好機を逃さず、そこから思い切ってCDを購入してみるのも良いかもしれません。

曲名などが分からなくとも、今はインターネットの時代ですから、きっとすぐ調べが付くはずです(ちなみに私は昔TV番組のBGMが気になり、TV局に電話をかけて問い合わせたことがあります。すぐに教えて下さいましたよ)!


学校で歌った曲が、実はクラシックの名曲だったりすることもありますよね。

たとえばドヴォルザーク交響曲 第9番 「新世界より」の第2楽章が「遠き山に日は落ちて」として、もしくはスメタナ交響詩「わが祖国」の第2曲「ヴルタヴァ」が「モルダウ」の名で歌詞がついた合唱曲として親しまれていたりします。こうした曲は、大人になってもメロディがずっと頭の中に残っていたりするものです。


そういった曲があったら、思い出とともにもう一度楽しんでみるのも、とてもワクワクすることです。

そのときに感じたことや、出来事など、きっと思い出されることでしょう。


そうした思い出を、ご家族で共有するのも素敵ですよね!


色々な場所に、機会は転がっているものです。

飯塚

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2009年09月01日

エピソードI,II,III

管楽器が華やかに活躍する協奏曲は、何故かあまり多くありません。

もちろん無いわけではないのですが、ピアノやヴァイオリンのためのものに比べると、数は少ないのが現状です。


それでもモーツァルトには管楽器が主役になる曲が多いですから、演奏会や録音などでも良く取り上げられます。


どんなものがあるかと言いますと、

フルート協奏曲が2曲

オーボエ協奏曲が1曲

ファゴット協奏曲が1曲

ホルン協奏曲が4曲

フルートとハープのための協奏曲が1曲

そして彼の生涯最後の協奏曲であるクラリネット協奏曲が1曲です。

また2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネという曲にも管楽器のソロがあります。

ちなみにモーツァルトが初めて書いた協奏曲というのがどうもトランペットのためのものだったらしいのですが、こちらは現在楽譜が見つかっておらず、いまだ謎のままです…。


他にも、複数の管楽器(オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)のための協奏交響曲があり、これはモーツァルトの自信作でしたが!…こちらにいたっては、初演の直前に楽譜が丸ごと紛失してしまいました…当時モーツァルトはパリのオーケストラ奏者達のためにこれを書いたのですが、楽譜が突然無くなったのは、「自分の名声を妬んでの誰かの陰謀」という由のことを語っています。これも非常に残念ですね!しかしこのエピソードが非常にモーツァルトらしい。


またフルート協奏曲は2曲あるのですが、その第2番といのが実はオーボエ協奏曲の焼き直し版で、当時モーツァルトに大金を払って作曲を依頼した人物は、新曲でなかったことに立腹したという記録も残っているようです。これもモーツァルトらしいエピソードですね!


モーツァルトより前の時代に遡りますと、バロック期には「協奏曲の鬼」といっても過言ではないヴィヴァルディや、楽曲の多さでは誰にも負けないテレマンらをはじめ、管楽器の協奏曲は数を増してきます。


そういった伝統を次の古典派の時代にもキチンと受け継いでいるところもまた、非常にモーツァルトらしいところです。

飯塚
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2009年08月31日

ポニョへの情熱大陸

レッスンをしていると、たまに「先生、これが弾きたいんです!」と言って、自分で用意した楽譜を持ってきてくれる子がいます。

そうした場合、多くは久石 譲さんのお書きになったスタジオ・ジブリの映画音楽や、葉加瀬 太郎さんの「情熱大陸」などですが、やはりどれも共通しているのは、生徒の皆さんが普段耳にしている作品だということです。


スズキ・メソードの生徒たちは、普段から音楽を良く聴くように、教本に付属のお手本を良く聴くように、と指導者から言われています。

それは、無形の音楽的センスをこれほど高く深く、しかも本人も気付かないうちに、いつの間にか身につけてしまう、などという方法は無いからでもありますが、同時に、「この曲を弾きたい!」という学習意欲を高めることにも繋がっているのです!

子供たちが、日頃聴いている曲を弾きたがっていることが、何よりの証拠です。


飯塚
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2009年08月30日

ヘンデルは歩いてこない

今年はヘンデル・イヤーといことは、以前このブログにも書きました。

ヘンデルは1685年生まれ、1759年没ですので、2009年が没後250年記念に当たるのですね。


ヘンデルと言えば「メサイア」などが有名です。

メサイア」のように、オーケストラと合唱、そして配役を伴った独唱者で一つの物語を歌によって上演する形式を「オラトリオ」と言います。

オペラとどう違うかというと、ものすごく簡単にいうと、舞台装置の有無、ステージを動き回るような実際の演技の有無、というところでしょうか。


オラトリオもさることながら、彼の最も得意としたジャンルはオペラでした。


オペラもオラトリオも、1作品大体2時間くらいで上演されるとして、1つ完成させるのに大変な時間と労力が必要とされそうですね!


ところが、このオペラとオラトリオを、ヘンデルは何と70作品近く作っているのです!全くスゴイことですよね!


残念ながら、普段はなかなか「メサイア」以外のヘンデルのオペラ・オラトリオを見る機会がありません。


もちろんバロックのオペラやオラトリオは、モーツァルトなど古典派以降のオペラと違って内容もある程度決まったもの…つまり、英雄の逸話、歴史もの、宗教的なものがほとんどです。ごく普通の一般大衆が主役の恋愛劇などは描かれません…。


しかしそれだからと言って、ヘンデルのオペラの価値が下がることがあるはずがありません!

素晴らしい音楽の宝庫なのです。


ヘンデル・イヤーの今年、まだまだ見る機会もあるはずです!

向こうからやって来ないなら是非、自分から機会を作ってしまいましょう!

飯塚
posted by suzukimethod at 17:25| 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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