2010年06月02日
こちらも乙なんです。
2010年05月30日
乙なんです。
皆さまご承知の通り、今年、2010年はショパンとシューマンの生誕200年記念の年です。
本日はシューマンについて書いてみます。
ショパンはもちろん、シューマンもピアノ曲を数多く作りました。
本人自身もピアニストを目指していましたが、手の故障により断念、その後は妻でもあり、当時最高のピアニストの一人でもあったクララ・シューマンのために、数々の名曲を残しました。
とはいえ、シューマンの曲はちょっと地味めといいますか、哀愁を帯びているといいますか、認知度もそれほど高くはないように思われます。
たとえば誰でも聴いたことがあるほどの有名なものが、『トロイメライ』か、頑張って『楽しき農夫』といったところですよね。
そもそも、シューマンや、一つ年上のメンデルスゾーンといった作曲家たちは、一方で超絶技巧を駆使した作品や演奏家たちを称賛しつつ、他方において、自分たちは「技巧のための技巧」に終わるような曲は書かないというモットーがあったようです。
その信念が、シューマンの曲の中には貫かれていると感じます。
技術的にはかなり高度なものが要求されていながらも、聴衆はその技術の高さに対してではなく、音楽そのものに称賛を贈ることになる。
そうした曲作りへの姿勢が、シューマンの音楽をシューマンの音楽たらしめているように思われてなりません。
そして、そこがまたたまらなく良いんです!
ちなみに個人的に非常に好きなのは、『ウィーンの謝肉祭の道化』という曲です。あまり演奏頻度が高くないように思われるのですが、気のせいでしょうか?
もしそうなら、ピアニストの皆さま、このシューマン・イヤーには是非、お聞かせ下さい!
飯塚
2010年05月23日
一里塚
http://www.simc.jp/index_j.html
http://www.simc.jp/streaming4th/index.html
2009年09月16日
漕げ漕げお舟
音楽は言葉を越えた文化の代表でありながら、音楽そのものは、言葉の影響を少なからず受けて成り立っています。
例えば、我々日本人が作る音楽は日本語のリズムや抑揚をいつの間にか反映したものになっている、というわけです。
もちろん、特に現代のように世界同時進行的な世の中では絶対ではありませんが、時代を遡るほど、歌詞の有無に拘わらず、そうした影響がその音楽の「アイデンティティ」を作る一つの要素になっているということは、間違いなく言えると思います。
ですから、たとえ何となくでも、色々な外国語の発音やイントネーションのイメージを頭の隅に置いておくことは、外国の音楽を解釈、理解したり演奏、表現したりする際に、非常に役に立ちます。
他にも、いわゆる「国民性」やその国の文化なども、当然ながら影響していますが、やはり言葉によるそれはとてもストレートに現れます。
イタリア語の母音の豊かさが、あのカンタービレを作り出すのでしょうし、
ドイツ音楽のキッチリとした進行はドイツ語の響きに似ていますし、
フランス音楽の持つ独特のアンニュイさは、フランス語の雰囲気そのものですし、
英語のポップスに良くある速いスキップのようなリズムは、英語の抑揚そのまんまです。
以前、「マザーグース」の詩を吹き込んだCDを聴いたところ、それがなんとイギリス起源のダンス、「ジーグ」のリズムと全く同じでした!
音楽は文化交流の入り口となり、言葉がその次のステップとなるのですね。
飯塚
2009年09月15日
飯塚教室 発表会のお知らせ その1
・ 少人数のグループによる演奏
・ 独奏
・ アンサンブル
・ 飯塚教室の弦楽合奏団 『コレギウム・ムジクム仙台』による合奏
2009年09月14日
61の制約
クリストフォリという製作家が「発明」したのですが、それ以前に活躍したチェンバロに比べて鍵盤のタッチが重く、バッハなどはお気に召さなかったようです。
発明当時のピアノを、現代のピアノと区別するために便宜上“フォルテピアノ”と呼んだりします。
なぜ区別する必要があるかというと、様々な点が異なっているからです。
まず鍵盤の数ですが、現代のピアノが88鍵あるのに対し、当時は61鍵が普通でした。チェンバロなどもその数が通常です。今のものと比べて高音域と低音域が少ないのですね。
ですから、バッハやヘンデル、ハイドンやモーツァルトの楽曲などは、この鍵盤の範囲よりも高い音、低い音が出てこないというわけです。
そして、弦を張る力も違います。現代のピアノは中を覗くと大きな「鉄板」の様なものが入っていて、それに弦をかなり強く張ってあります。何トンという力だそうです!これによってとても大きくて力強い音が出せるわけです。
ところがフォルテピアノは外見も中身もボディはすべて木製です。ですからあまり強く弦を張ると木の板が歪んでしまいます。それに伴い、音の大きさもそれなりでした。
そうすると当然見た目も違います。細身で、華奢で、木材の質感の分かる外見をもつフォルテピアノに対し、真っ黒で、いかにも重たそうな現代のピアノは、まさに「楽器の王様」といった風貌です。
フォルテピアノは、ベートーヴェンの時代、というよりもベートーヴェンの音楽的要求に合わせて?、急速に進化をしていきました。
鍵盤数もその時代に88鍵まで増えましたし、大型化に伴い音量も増しました。ピアノはその内部で弦をたたいて鳴らす構造ですが、そのシステム自体も変化していきました。
現代の様な形に落ち着いたのは大体20世紀に変わる頃です。スタインウェイによって現代の形にまで変化を遂げました。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、このピアノの進化と共にあります。
第1番、第2番はモーツァルト時代と同じ小さなフォルテピアノで弾かれましたが、第3番、第4番、そして偉大な第5番という風に、徐々に音楽の規模も、必要な鍵盤数も、大オーケストラに対抗するだけの音量も増していきました。
ベートーヴェンの音楽的要求がピアノを発展させたのか、もしくはピアノの発展がベートーヴェンをインスパイアしたのか。
そのような観点から各協奏曲を聞き比べてみるのも、面白いですね!
飯塚
2009年09月09日
友、遠方より来たる
山同先生と私は同い年ということ、そしてスズキ・メソードの地区区分では「北海道・東北地区」という同地区所属であるということなどの理由もあり、親しくさせて頂いております。
同地区とは言え、札幌と仙台は海を越えなければなりませんし、年数会の全国イベントを除けば、普段はなかなかゆっくりとお話しさせて頂く機会もないので、ここぞとばかりにお互いの近況や普段のレッスンでのことなど、様々に情報交換し合いました。
このように全国各地に同じ志の下、同じ様な喜びや悩みを持って日々活動している方達がいらっしゃるというのも、なんとも心強いものです。
ちなみに、札幌支部山同クラスのホームページはこちらです。
飯塚
2009年09月08日
スズキ教育法研究会
北は北海道から南は九州まで、本当に色々な土地から仙台まで参加して下さいました。おいでいただいた指導者の先生方、本当にありがとうございました!
今回は、中嶋嶺雄会長と、豊田耕兒芸術監督までいらっしゃいました。
初めに先生方の講演と、それに纏わる質問という流れで会は進行しました。
最後には、時間が足りなくなるほど議論が白熱しました。
こうした会に参加して得られたものが、普段のレッスンを通じて会員の皆さん、生徒の皆さんにお伝えしていけるよう、また頑張って参りたいと思います!
飯塚
2009年09月07日
クロスオーヴァー
けやき並木に覆われた定禅寺(じょうぜんじ)通りとその周辺が、沢山のバンドやお客さんで埋まります。
ジャズ・ヴァイオリンといえばステファン・グラッペリと、何と言ってもスタッフ・スミスが有名です。
スタッフ・スミスのあの独特の、しゃべるような歌うような、自由自在の演奏、グルーヴ感は、とてもマネの出来るものではありません!ホントに魅力的です。
また、もともとはジャズ畑のジョージ・ガーシュインの曲も、クラシックの演奏会では良く演奏されます。
ラヴェルのヴァイオリン・ソナタの第2楽章“ブルース”も、クラシックとジャズのクロスオーヴァーとして有名です。
普段クラシックの方を沢山聴かれる方も、普段は敬遠しがちな方も、どちらの視点からも楽しめる音楽です。
というより、あまりジャンルにこだわっていても、仕方ありません。音楽は音楽なんです。
飯塚
2009年09月06日
こぼれ落ちた。
せっかく頑張って掴みかけたものが、その直前に手からこぼれおちる…そんなことって、ありますよね。
私は頻繁に経験していますが、たった今も、また経験しました。
数十分かけて書いたブログが、なぜか保存されなかった…。
何かの操作ミスに違いありません。
そんな時は、むなしさで一杯になりながら、それをネタにまたブログを書く。
一度きりしか使えない手ですが!
今日書いて儚く消えたあのネタに合掌しつつ、いつかまたここに復活させることを心に誓いつつ。
明日また頑張ります…。
ともあれ、何か一つくらい。
最近、またバッハの無伴奏ソナタとパルティータを聴く機会が増えました。
しかし、これは本当にとてつもない曲です。
1720年に書かれてから、約290年くらい経っても、その輝きはまるで失われることがない。
とても難しく、容易には扱えないし、もし万が一、仮に技術的に演奏が可能になったとしても、その演奏解釈がまた非常に難しい。
どの方角から登っても、簡単なコースが無い、険しい山のように聳え立っています。
それでいて、その姿は厳格にして美しいだなんて。
おそらく今後500年経っても、ずっと金字塔のままなのでしょう。
ちなみに私はまだ、その山に近づく道に迷い続けています。
消えた文書と全然違うものを書いてしまった。
飯塚